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あったかい眼差しを感じた映画だった。
「慈愛」というコトバを連想する。
日々の日常生活では、
口に出さないコトバ。
口に出てこないコトバ。
あからさまに表現したり、明示したりしないコトバ。
そんなコトバが発する想いが、スクリーンに漂い溢れていた。

先日、埼玉県の公共施設で開催された映画会に、映画の主演者にココロ引かれ出向いた。
上映されたのは、2015年に制作公開された映画「あん」。
主演は樹木希林、最後の主演作だという。

(イメージ写真下に続く)

劇中の舞台は、小さなバラック風な小屋で製造・販売する「どら焼き店」。
商品は、どら焼き。のみ。

サクラ満開の頃、その店に吸い寄せられるようにやってきたハンセン病を患ったひとりの老婆(樹木希林)。
木々に投げかける眼差し、微笑み、手の振りよう。
もうたまらないほど彼女は可愛らしく、チャーミング。

手の不自由なこの老婆がふらりと店にやってきて、店先に張り出してある求人に名乗り出る。
が、ひとりで店を仕切る雇われ店長(永瀬正敏)は、老婆の身体を察して求職を断り、その際に手切れ替わりにどら焼きを手渡す。

老婆は、その場でどら焼きをひと口、そして一言。
「あん」が、今一つ。ココロがこもってないね、と。

そして数日後、老婆は自分お手製の「あん」を携えてまたふらりとやって来た。
その「あん」に店長はココロ動かされ、
どら焼きの「あん」造りを彼女に託すことに。

「あん」造りの最中、彼女の口上やら表情が本当に柔らかい。
大鍋の中で煮える小豆に対して、おもてなしするのだ、と言う。
大地でジックリ育って実った小豆が、ここへ来てくれたんだ。
だから、しっかりもてなすのだ。と。
釜で煮える小豆の声を聞くんだ、聞いて火加減するのだ、と。
煮える小豆に向けた優しいまなざし、
小豆を扱う柔らかな所作。
なんとも、演者の樹木希林が愛おしい。

劇中、樹木希林のあるセリフを聞き逃した。
なんとなしに、この映画のコアなのでは、と内心で感じていたセリフだ。
映画を観終わった後に、会場の出入り口に置かれたパンフレットにそのセリフを見つけた。
これだ!
これが聞き逃したセリフだ。

私たちは、この世を見るために、聞くために生まれてきた。
だとすれば、何かになれなくても、私たちは、生きる意味があるのよ。

これが、この映画のコア!
映画の隅々に漂っていた「慈愛」は、このセリフを起点にして生まれていたのだ。
社会性を押しつけがましく最前面に押し出すことなく、老婆自身を小豆に重ねて「あん」を代弁者にしたのではないだろうか。

時折、スクリーン全面に広がる雑木林。
樹木が風に揺られ、
風で葉がこすれ合って樹木が発する声、ささやき、ざわめき。
生きる命の姿・声が度々、姿を変えて映像となって登場していた。

随分と昔、これと似たシーンを別の作品で観た記憶がある。
本映画の監督、河瀬直美の作品「殯(もがり)の森(2007年)」
観る前には知らなかったが、オープニング・クレジットに監督名を見つけた時、この映画(殯の森)が脳裏をよぎった
監督のモチーフなのだろうか。

ブログ人は、原作を読んでいない。
が、原作、映画監督、役者の3者がガッチリ噛み合った作品だと、ブログ人は感じている。
原作者、映画監督の想いを体現した樹木希林に黙とう。

私たちは、生きる意味があるのよ。


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FP事務所 ネクストプレイン


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