舞台「桜のその薗」、サクラ満開の今思い返す。
いま東京首都圏では、さくらが満開だ。
以前公表された開花予想時期は少々遅れ、今まさに満開のさくらを堪能している。
今年1月(2019.01.31)にノゾエ征爾による脚本演出、“はえぎわ”の「桜のその薗」を下北沢・スズナリ劇場で観たことを思い出した。
当時感じたコトを、思い返しながら無手勝流で書いてみたい。
この作品の作家、演出家の意図に沿っていなかもしれないが、ご容赦いただけると幸いだ。
いざ、開薗(かいえん)!
舞台には、高さの異なる(膝髙から腰髙くらいの)直径5,60cm程度の円筒形の柱がいくつも置かれていた。
今そこに林立するのは、ビル群、大都会?
いいえ、かつては桜の薗?。今は幹がバッサリ切り取られた、いくつもの桜の切り株?
かつて桜の薗だった風景は今そこになく、今ここにあるには殺伐とした都会のビルの園、という設定なのだろうか。
(*「薗(草冠あり)」=果樹・野菜・草・花を植えた区画の土地)
(*「園(草冠なし)」=区画を定め、他から区別された広い地所)
(イメージ写真以下に、続く)

ビルを渡り歩く女、さくら(桜の薗の妖精?)。
さくらは、サクラのないビル群を、悲しみ、もがきながら渡り歩いていたようだった。
時に、人生の一コマを踏み外すかのように、ビルを踏み外していた。
バッス!
全く唐突に、ビル林立する都会の闇から一本の矢が降り注ぎ、さくらの胸を刺す。
不条理の矢か?
さくらは、その矢(不条理)にもがく。
そして、もうひとり、悲しみにもがく女が現れ、またも不条理の矢に胸を刺されもがく。
もがきながら、二人の女は言葉を応酬する。
何に、もがいているのだろうか。
矢の痛みに?、相手のコトバに?、自分のココロに?、社会の不条理に?。
そんなシーンから始まった。
そして、葬儀社における自社社員による不祥事のシーン。
火葬後の遺骨を取り違え、他の遺族に渡してしまう。
それを引き金に起きた殺人事件。
不祥事の当事者でない者が不条理にも殺められる。
殺められた者は、不条理を象徴する「ハシ」を頭に突き刺したまま、この世で彷徨(さまよ)いもがく。
人は誰でも不条理なこの社会で、もがきながら生きている。
物語り終盤にさしかかった頃、
力強い声で、「アイムジャクソン(ジェイソン?)」と聞こえてきた。
「アイムジャクソン」と、外に向かって表明すると伴に、
叫んだ本人が「わたしはジャクソン」と内なる自分に向かって叫んでいるようだった。
自分の名前を自分に言い聞かせることで、己のアイデンティティを再認識し、己を奮い立たせていたのではないか。
そうすることで、
もがくことから決別し、不条理に身を振り回されず、胸張って上を向いて生きていけるのだ。と、
確固たる思いを込めて、「再生」するのだ。
再生して、一歩踏み出そうとする「ジャクソン」の在り様、姿勢を観た。ような気がした。
「ジャクソン」って誰?
誰でもイイ。
それは問うまい、聞くまい。伺うまい。
きっと、「ジャクソン」とは、ひとそれぞれ、自分のコト。
この名前は、歯切れよく、力強くてでいい。
ココロ強いメッセージが、舞台の中に充満し、
花(さくら)吹雪が登場人物の全身に注ぎ、ピンクの花びらが舞台を覆った処でフィナーレとなった。
この無手勝流の解釈、自分流。
随分とタイムラグもあり、舞台の意図に沿わないかもしれないが、
こんな楽しみ方があってもいい。
これも自分流。
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